第3話 夏の行水

メインタイトルには「冷暖房」とあるが、暖房のほうがわかりやすい。太古の人類は「火」を得て、灯り、食物の加熱、陶器や銅器、鉄器などの製造に使い、文明の誕生の大きな基盤となった。そして火は、暖をとるエネルギーとしても貴重だった。祖先たちは、寒さから身を守るために火を使ったわけだが、暑さから逃れるための機器は存在しようがなかった。古代ローマの遺跡では、湯を使ったセントラルヒーティングの施設跡を見ることができる。しかしさすがのローマにも冷房装置と呼べるものはなかったはずだ。夏、子どものころは行水しかなかった。あと、日本人は「打ち水」という暑さ対策を見出した。打ち水は、エアコンで利用される「ヒートポンプ」技術の原型というべきものだ。「ヒートポンプ」については後述する。

乱暴に言えば、暖房は、熱を発生させればいい。山から木を切ってきて乾燥させ、燃せば、その場は暖かくなる。だが、冷房、エアコンはそれほどシンプルではない。エアロテックはさらに先端的で、複雑で高度な技術が幾重にも組み合わされている。

エアロテックの技術に迫るために、まずエアコンを知ろうと思った。エアコンの原理のようなものの把握を目指したのである。わたしの記憶だと、エアコンは、昔クーラーと呼ばれていた時期があった。当時のエアコンには冷房の機能しかなかったのかどうか、はっきりしないが、エアコンの原理の理解は簡単ではなかった。作家だから、機械類、理数系には弱いのだろうと言われそうだが、確かに強くはない。

夏の行水の様子

だが、『ヒュウガ・ウイルス(1996年 幻冬舎刊)』というパラレルワールドを題材にした小説を書いたとき、「分子細胞生物学」を勉強した。『ヒュウガ・ウイルス』の内容を短くまとめると、日本が1945年に無条件降伏せず、長野地方に築いた地下トンネルを基地、居住地とする国家となって、アメリカを中心とした連合軍と戦争を継続しているという設定である。第1部が『五分後の世界』というタイトルで、『ヒュウガ・ウイルス』はその第2部だった。地下トンネル国家の日本、九州南部に巨大なリゾート都市があり、そこで未知のウイルスが発生し、パニックが起こっていて、精鋭を誇る日本兵士が鎮圧に向かうというストーリーだった。

下手をすると荒唐無稽なSFになってしまうので、未知のウイルスをデザインするために分子細胞生物学に挑んだのだった。アメリカの医療系の大学生が授業に使うという上下二巻の分厚い翻訳書を読みはじめた。最初は、外国語か、暗号を読んでいるようだった。細胞学事典、医学事典、免疫学事典、遺伝学用語事典など辞書を数冊用意して、わからない専門用語があると辞書を引き、メモをとって、少しずつ読んでいった。とりあえず読了するのに二ヶ月かかった。細胞の構造と仕組み、DNAの複製・蛋白質合成、免疫などなど、全て理解できるわけがないが途中から興味が湧き、そして、読み終わったあと、ウイルスという生きものの大きさが、視覚的にイメージできたような気がした。

イメージできないものは文章化できない。「じゃあお前は恋愛心理をイメージできるのか」と問われると、「心理」はイメージできないが、誰かが誰かと恋に落ちるシチュエーションは、当人たちの表情や、態度の変化、ファッション、そして何より「会話」などを総合し、視覚化は可能だ。

分子細胞生物学はエアコンの原理とはまったく関係ないが、ウイルスの大きさをイメージできたのだから、エアコンについても何とか視覚化できるのではないかと考えた。機械なのだから人体よりはシンプルだと思ったのだが、甘かった。エアコンの仕組みの説明は、ネットで検索すれば山ほどある。基本としては、前述した「ヒートポンプ」が中心で、だいたい以下のようなことが書いてある。
「液体が気化する時に周りの熱を奪い、逆に、気体が液体に凝縮する時には周囲に熱を放出する」
そして、「打ち水がその好例、注射のときアルコールで腕を拭くとすーっと冷えたり、そもそも、人間が汗をかくのも、汗が気化するときに体を冷やすことができるからです」というような説明が続く。この辺までは誰でも理解できる。ただし、そういった例から、一気に飛躍して、急に、わかりづらくなる言葉が登場する。

「冷媒」である。冷媒には歴史的にフロンというガスが使われていたが、地球のオゾン層に穴を開け、紫外線を遮ることができなくなるので、現代では「フロン代替物」と呼ばれるものに変わっている。エアコンの、非常に簡単な原理として、室外機と室内機がパイプでつながれていて、そのパイプには冷媒が入っていて、熱を運んでいる、みたいな記述がある。「冷媒が熱を運ぶ」その文章を何十回読んだかわからない。だが、「熱を運ぶって何なんだ」と匙を投げそうになり、最後には「霊媒」と誤読するほどだった。

「熱を乗せる冷媒」「熱を運ぶ冷媒」「熱を下ろす冷媒」というような表現が繰り返される。冷媒は、たいてい部屋の窓際に設置されていて冷たい空気を流す室内機と、建物の外部に設置され、ドレンと言われる排水口からぽたぽたと水が垂れ、熱を帯びた空気が排出されている室外機、その双方をつなぐパイプを循環している。冷房中の室外機のそばを通ると外気より熱い風が吹き出しているのがわかる。ただし、それらは単なる現象で、原理ではない。そもそも冷媒はどうやってパイプを循環するエネルギーを得ているのか、それさえもわからない。

室内機、あるいは室外機から、冷媒はどうやって空気の熱を運ぶのか、それが最大の謎だ。そもそも冷媒は、室内機と室外機をつなぐパイプの内部にあり、パイプは密閉されている。直接空気と触れ合うことはない。冷媒が入ったパイプの内部に空気が入りこむことはない。どうやって空気の熱を受け取ったり、放出したりできるのか。エアコンの原理を理解するのは極めてむずかしかったが、キーワードは「ラジエター」だった。車の冷却装置であるラジエターである。次回は、理解できる範囲でエアコンの原理にさらに迫り、その最高峰の技術の結晶とも言えるエアロテックの秘密に、少しずつ近づくつもりです。