三菱地所ホーム

 

 

 
 
エアロテック、
快適さの本質に迫る
村上龍

冷暖房と換気の
個人史

わたしは、九州・長崎県、佐世保という米軍基地がある街で生まれ育った。1952年生まれだが、まだ高度成長がはじまっていない、戦後復興期の終盤、日本中が貧しく、モノがない時代だった。九州と聞くと、宮崎や鹿児島の風景が浮かび、全体的に暖かいと思われるかも知れないが、北の福岡などではよく雪が降るし、冬は、寒かった。

ある朝、起きてみると、剣山が底にある平べったい花器の水が凍っていたのを覚えている。暖房は、火鉢と炬燵(こたつ)しかなかった。わが家の場合、両方とも熱源は木炭で、炬燵は膝から下を降ろせるくらいの凹みがあり、セメントの底の中央が、さらに円形に掘られていて灰が敷かれ、そこに真っ赤に燃える炭を置いた。そのまま足を降ろすと火傷のリスクがあるので、凹みには、幅3~4センチの竹の棒が等間隔に固定され並べられて、持ち上げることができるように置かれ、足が、焼けた炭に触れないように、柵のような機能をしていた。竹は、炭と微妙に離れていて、燃え上がることはなかったが、しばらく使っていると焦げて折れたりするので、定期的に新しいものに代えられた。

村上龍5歳、母と炬燵で
村上龍5歳、母と炬燵で

足が暖かいと気持ちがよくなるので、炬燵の布団を被ってそのままうたた寝することが多かった。だが布団を顔まで引き寄せてしまうと、一酸化炭素にやられてやばいので、祖父母や両親からいつも注意された。電気炬燵もあったが、こちらも電熱用ニクロム線に網のような簡単なカバーがあるだけで、火傷する人も少なくなかった。

火鉢にも炭が入っていたが、せいぜい手を温めたり、餅を焼いたりするくらいで、とても部屋全体を暖めるようなエネルギーはない。なので、子ども心に記憶がある暖房といえば、炬燵しかない。あと、「湯たんぽ」というのがあった。アルミなどの金属、それに磁器の容器に熱湯を入れ、寝るときに布団の足下に差し入れるのだ。熱湯だと熱すぎるので、和らげるために最初は布が巻かれた。湯が冷めていくと、その布を外す。だが、磁器に入った熱湯でも、やがて水になり、目覚めるころには逆に冷たくなっていた。

電気毛布なんかないので、冬の布団は重く、息苦しさを感じ、まるで怪物や悪魔がのしかかっているようで、わたしは非常に苦手だった。湯たんぽ、炬燵、火鉢、わたしが子どものころ、暖房というか、体を暖めてくれるものはそれだけだった。

高校生になったころだと思う。父がイギリス製の、「青い炎」で有名な石油ストーブを購入した。炎がきれいだと思ったことをよく覚えている。かすかに石油が燃える臭いがしたが、青い炎が生みだす暖かさのほうがはるかにありがたかった。学校の職員室などにはストーブがあったが、燃料は石炭で、当時の男の教師はほぼ全員が煙草を吸ったので、室内の空気は、今では考えられないほどひどいものだった。換気という概念はなかったように思う。ちなみに教室にはストーブがなく、真冬だと吐く息が白くて、鉛筆を持つ手がかじかんでいた。

とにかく寒かった。九州なので、北の国や雪国と違い、暖房へのモチベーションが低かったせいもあるのかもしれないが、寒かった。わたしは元気なこどもだったようで、どんなに寒くても薄着をして遊んでいたが、室内の寒さが、どれほど健康にマイナスか、日本の住宅の室内設計、断熱材の有無などが、昨今トピックスとなっている。夏の熱中症もリスクが高いが、冬の寒さは、血圧などシリアスな悪影響があるらしい。

「エアコン」という機器に巡り合ったのは、九州を離れ、上京してからだった。年を経るごとに、冬の寒さは、しだいに過酷さが薄まっていったが、エアロテックがある家に住むようになるのは、その後さらに40年ほどが経過してからのことだ。

村上 龍
1952年長崎県生まれ。『限りなく透明に近いブルー』で第75回芥川賞受賞。著作に『コインロッカー・ベイビーズ』、『55歳のハローライフ』、『オールド・テロリスト』などがあり、海外でも多数翻訳・出版されている。『トパーズ』『KYOKO』は映画化され、監督も務めた。最新作は『すべての男は消耗品である。最終巻』。メールマガジン「JMM」を主宰。テレビ東京「カンブリア宮殿」にメインインタビュアーとして出演中。